IE9ピン留め
メディア・リテラシーについて
内田樹さんの記事から、トラックバック。

内田さんが、メディア・リテラシーについて書いた文章。私自身にとって強烈に響いた言葉だったので、ちょっと長くなりますが、ここでご紹介したいと思います。


メディア・リテラシーとは、日本語で言えば「情報評価能力」であると、内田さんは言います。

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自分が伝えつつある情報の信頼性について、重要性について、適所性について、きちんと評価が下せるかどうか。
自分が伝える情報は真実か?それは伝えるだけの価値のあることか?それはいつどのような文脈の中で差し出されることで聴き手にとってもっとも有用なものになるか?
そういう問いをつねに自分自身に差し向けられること、それが情報評価能力ということではないかと私には思われます。
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「言葉の力」に関わる仕事をしている私自身にとって、たいへん心に響く言葉でした。

私自身、日ごろから、自分の発する言葉に対して、「本当にこれは正しいことなのか」と自問し続けるスタンスを取り続けることを肝に銘じているからです。

「アサーティブネス」という考え方は、ひとの思想や生き方にも深く関わるために、いきおい伝える側は、相手の考え方や生き方にまで踏み込む危険性と隣り合わせになっています。

いやなことには、いやだと言っていいんだよ
自分の意見や価値観をきちんと相手に伝えていいんだよ
おかしいことには、おかしいと伝えていいんだよ
自分の生き方を自分で決めていいんだよ

こうしたアサーティブネスの発するメッセージが、私自身を深く変えてくれたからといって、それは相手にとっては正しいことではないかもしれない、というところに、いつもいつも立ち戻って、謙虚に伝える努力をしなければなりません。

自分の伝えたいことが、本当に受け取り手にとって有用で価値ある情報になるのかは、受け取り手自身が決めるものであることを、何度も自分に言い聞かせながら話をする毎日です。

と同時に、実はもっと切実で深刻なことがあります。
それは、私がそうした伝え手を「養成する」仕事をしているということです。


私が勝手に言いたいことを講演や講座で伝えるのはいい。でも、最近つくづく思うのは、伝え手を「養成する」という仕事は、大変アブナイ・シゴトなのではないかということです。

私が「養成した」トレーナーたちが、内田さんの言う、メディア・リテラシーの意識の全くないトレーナーであったとしたら、社会にとってはむしろ「害」である以外のなにものでもないわけですから。

伝えることを職業としている私たちは、ある意味、自分の発する言葉を信じている必要がありますが、同時にその「信じている言葉」の危険性をも、常に自己検証し続ける責任があるのだと思うのです。
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だから、メディアにかかわる人間の「情報評価能力」はまずもって自分自身の伝えるメッセージの「真偽」と「重要性」と「適所性」について向けられなければならない、私はそう思います。
その評価の努力は「聴き手に対する敬意」によってしか担保されません。
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自分のメッセージを評価するその評価の基準をどこに持っていくのか。それは本当に難しいです。しかし、それが「聴き手に対する敬意」によって担保されるということは、本当にそうだと思います。

自分にとって「正しい」言葉であっても、相手にとっては「正しくない」言葉かもしれない。そうした謙虚さと相手に対する敬意を、私たちは忘れないようにしなければなりません。
by assertivejapan | 2005-04-21 06:38 | 汐生の思い
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