AJ代表日記をつれづれに書き始めて1年がたちました。
ちょうどいい機会だということと、こちらのサイトのインターフェースを変えたかったので、下記のサイトに移行することにしました。 http://assertivejapan.blog23.fc2.com/ 忙しいとなかなか更新できませんが、少しずつ書きためていこうと思います。 新しい日記も、よろしくお願いします。 森田汐生 #
by assertivejapan
| 2005-09-12 10:47
| 汐生の思い
またご無沙汰していました。9月に入って、なんだかものすごく忙しく飛び回っています。
先週の病院での2日間研修に始まり、週末は「トレーナー養成準備講座」が立て続けに2週間、その間も2つの大学で講義を担当していました。来週は大分と大阪に行く予定です。 丸一日講義や研修を担当すると、私自身はエネルギーを使い果たしてぐったりします。特に私は朝が早く夕方以降は完全に電気が切れてしまうため、事務所に寄ることもできずにまっすぐ家に直行、そして自宅でメールをチェックするという日々でした。 そんな中、この4日間は、都内のある大学で集中講義を担当しました。 学生たち20数名ずつ、始めは「何をやらされるんだろう」と半信半疑だったのが、徐々に友達同士仲良くなり、最後には、「○○ちゃん、大好き!」と言ってお互いにほめあって大笑いするほど盛り上がりました。 ボランティア先の職員さんとかバイトの先輩や部活の先輩とも、しっかりと自分の思っていることを伝えるために、たくさんの時間をかけてロールプレイで練習しました。それがとても新鮮な体験だったらしく、最後は目をキラキラさせてしっかりと自分の意見を伝えてくれるようになりました。 ちょっと複雑だったのは、「私が大学に入った頃」と言いかけて、ありゃ、それは君たちが生まれた頃だったね、と、自分の年齢にちょっとびっくりしたことです。 私自身、大学1年生は世界の何もかもを吸収したくて、うずうずして張り切っていたのを覚えています。先生の人生の話が面白くて、出会いが面白くて、ボランティアも部活もバイトも、何もかも120%一生懸命やっていました。忙しくて眠る暇もないという学生たちを見て、そういえばと自分の学生時代をふと思い出し、世界に対する新鮮なまなざしは変わらないのだと、ちょっぴり嬉しくなりました。 純粋に自分と向き合い、一生懸命相手に伝えようと努力する彼らに、とっても感動した4日間でした。 #
by assertivejapan
| 2005-09-09 06:17
| 講座のこと
アサーティブネスの定義の中に、「相手の権利を侵害しない限りにおいて、自分の権利を主張する」というものがあります。
「相手の権利を侵害しないで」ということは、一体どういうことなのだろうと、長い間考えていました。 アン・ディクソンの著書、『Woman at Work(邦題:『大事なことを思い通りに伝える会話術』角川書店)』には、 「他人を批判するには、相手が自分と対等だという感覚が必要だ」、と書かれてあります。 アサーティブに相手と向き合うということは、自分が相手に対して「優位に立つ」ことでは決してありません。相手をやっつけるのでも、自分の正しさを証明することでも、はたまた自分に相手を「正す」「資格」があると思い込むことでもないのです。 相手に対して、こんな言い訳をしてはいませんか。 次のような言い訳で、自分が黙っていることを選択していたとしたら、自分は相手と対等になっていないのだと、気づいて下さい。 「こんなことを言うと相手が怒るかも」 「上司にこんなこと言えない」 「私が間違っているかも」 「どうせ聞いてもらえないんだから、言ってもムダ」 これは、相手が優位に立っていることです。 反対に、 「あの人もどうしようもなかったのよ」 「誰だって完璧じゃないし」 「あの人はまだ若い/もう高齢/障害を持っているから」 「こんなことを言うと相手が傷つくかも」 これは、相手に対して自分が優位に立っていることです。 こんな風に考えてみると、実は「対等でない」ことは本当にたくさんあるということが見えてきます。 自分が相手に対してすでに優位に立っているとすれば(例:上司と部下、大人と子ども、男と女など)、その事実をしっかりと認識した上で、相手と対等になろうと努力してみること。 相手に対して優位に立つために、アサーティブネスを使わないということ。 それは大変重要であると同時に、自分自身に常に問いかける必要があるとつくづく感じています。 #
by assertivejapan
| 2005-08-26 12:12
| 講座のこと
肉親に対してアサーティブであろうとすることは、本当に難しいものです。アサーティブネスを“専門”にしている私でさえ、時々自分の「アサーティブネス度」を強烈に意識させられます。
先日4日間の連続講座を終え、そのまま両親のいる岡山の実家に戻ってまいりました。私の父親が認知症、介護度2の状況なのです。介護に疲れた母親の話を聞くことと、父親の顔を見に実家に戻ることを予定していたのですが。 「来週帰るね」と連絡したところ、最初は、「うれしい」と言っていた母親から、帰省の2日前に、「やっぱり帰らないで。私がしんどいし、気を使いたくないから」というファックスの手紙が届きました。 うーん、どうしましょう。 私には母のつらい気持ちが手に取るようにわかりますが、「今」彼女がとてもつらい状況の中で、強引に「帰る!」と言っても喧嘩になるし、だからといって、「わかった、今回は帰らない」と言うことでもないだろうと。 送られたファックスの手書きの手紙を読み、しばらく自分に落ち込む時間をあげたあと、やっぱり伝えるべきことは気持ちだろうと、長い手紙を書きました。 お母さんがつらいという気持ちがよく伝わってきた、でも、私もお父さんとお母さんの顔を見たいのだと、自分ができることをなるべくしたいのだと。 なかなか時間が作れないけれど、できるだけやりくりして今回は帰りたい。でも、帰ってほしくないということであれば、あきらめるけれど。 とっても残念だけれど、いつでも連絡を待っています、と。 そんな内容だったと思います。 翌日、実家に帰る電車をキャンセルし、今回はだめかなあとほぼあきらめておりましたら、仕事中に母親から再度ファックスが届いたと家族が教えてくれました。 母は私の手紙を読んで、これまで我慢していた涙のダムが決壊して、初めて泣いたそうなのです。独りぼっちで闘って一生懸命やっていて、親戚からのサポートも拒絶したくなるほどつらい気持ちでいたのだけれど、私の手紙は彼女の心に届いたようでした。 ということで、再度電車のチケットを取り直し荷物を準備してまっすぐ帰ってきたところです。好々爺になった父がニコニコと子どものように笑う顔を見て、胸が熱くなりながら、顔を拭き体を拭き、そして残り少ないかもしれない父親との触れ合いを大事にしようとしています。 怒ったまま帰って喧嘩をするのでもなく、黙ってあきらめるのでもなく、素直にそのまま自分の気持ちを伝えたら、その気持ちがまっすぐに伝わりました。 本当にこれこそが一番大事なのだと改めて思いました。 #
by assertivejapan
| 2005-08-17 13:04
| 汐生の思い
アサーティブネスとは“葛藤を引き受けることだ”と前のエントリーで書きましたが、「葛藤する」ということは、「待つ」ということでもあります。つくづく感じるのは、私たち、待つことができなくなったなあということです。
答えがなかなか見つからないことに思い悩みつつ、時間をかけて答えを探し続けること。 人間関係が抱える課題は“すぐに”答えなど出てくるはずなどなく、何ヶ月も何年も、ある場合には何十年もかかって“変化する”ものなのだと思うのですが、アサーティブトレーニングにいらっしゃる方の多くは、なるべくすぐに結果を出したいと切実な思いを抱えていらっしゃる場合が多いようなのです。 これは、ある種「先進国病」なのかなあ、と、ふと思ったりします。 私がフィリピンに滞在中、一番身をもって学んだのは、結果はすぐに出ない、ということでした。 私が郵便局に荷物を取りに行ったときのことです。12時ぴったりに郵便局に到着したにもかかわらず、職員は「昼食休憩」に入ってしまい、ドアはぴたりと閉ざされてしまいました。何事だ、私はお客様だ、わざわざ日本から荷物を取りに来たんだぞと、私は“傲慢”にも、閉まった扉の外からドンドンと大きな音でドアをたたき続けました。 むっとして顔を出した職員に、私は、 「荷物を取りに来ました。日本からのものです。すぐに出してください」 私の剣幕にもめげず、彼が答えたのは、 「わたしはこれからお祈りをするので、1時までは出せない」 ということで、再び扉はガチャンと閉められてしまいました。 結局、私は1時まで、郵便局の別のおじさんとおしゃべりしながら待つことに。 それが最初に、フィリピンで私が「待つ」ことを学んだ体験でした。 その職員にとっては、昼の時間はお祈りをするという大変貴重な時間だったのです。ところが私は、「日本人」の「お客様」であるという立場から「すぐに」対応してもらうことを求めてしまいました。 日本にいれば、電球が壊れたらすぐに取り替えて、パソコンが壊れたらすぐに修理して、何かがなくなったらすぐに補充して、日常生活を続けようとします。 しかし、かの国で学んだのは、壊れたら2,3日、ひどいときは1週間以上も「待つ」ということ。それくらいの悠長さで物事は進んでいき、人間関係もそれくらいの余裕を持って解決に当たるような気がするのです。 それが「良い」とか「悪い」とかということではありません。 ただ、これくらいのスパンで物事を考える余裕を、私たちは忘れてしまっているような気がしてたまらないのです。人間関係が機械のように「壊れる」ことなどないにもかかわらず、あたかも機械のように「壊れた」人間関係を、「すぐに」修理、修復しようとしてしまう。 アサーティブネスはあくまで一つの人間関係の向き合い方であり、立ち方です。じっくりと葛藤しながら、そして希望を捨てないで関わり続けることこそが、長い目で見ての改善につながっていくのではないでしょうか。 #
by assertivejapan
| 2005-08-04 16:05
| 汐生の思い
|
ファン申請 |
||